鎌倉 散歩 後編
- 2017/11/28
- 00:00
2017(H29).11.26(日) 51 Photos
稲村ケ崎でたっぷりと潮風を浴びて再び江ノ電で鎌倉駅まで戻ります。まだ午後1時を過ぎたばかりなのでもう少し慣れた道を散歩してみます。

JR鎌倉駅そばの踏切を渡ると両側の留置線にはまずあの651系K105編成 急行 ぶらり横浜・鎌倉号が日立への帰り便のために待機しています。いつも見たことがないのですが、この位置からどうやって左の上り線へ入線させるのでしょうか。いったん逗子側へバックしてからでしょうか、それとも北鎌倉側へこの踏切を越えてからバックでホームへ入るのでしょうか、常識的には逗子側へでしょうが、一度観てみたいと思っています。ああ、手っ取り早いのは駅員に聞くことでした。


下り線側には185系B3編成ですが、これはあのホリデー快速鎌倉号ではないと思うのですが、朝は確かB6編成だったのです。

パンタグラフも下ろして電源を切っているので、ライトも点かずお昼寝中です。おそらく団臨でしょう。
両車とも違う車両センター所属ですが、とてもよく手入れされていて車体のピカピカが光ります。

今、鎌倉市では近々封切りのこの映画の話題でいっぱいのようです。
おととし夏は ”海街Diary” でした。

去年3月にリニューアルした 段葛 を行きます。ニの鳥居を潜ります。

ちょっと遅れたお宮参りかな。

鶴岡八幡宮 の玄関にあたる大鳥居まで来ましたが、駅から程良く便が良く鎌倉一の人気スポットですから相変わらずの人波です。源平池の平家側の橋が工事で閉鎖されているので右側の橋の上は大混雑です。

人波に揉まれながら橋を渡り、鎌倉市雪ノ下2丁目の鶴岡八幡宮参道へ入ります。
右手の源氏池の池畔には僅かばかりの紅葉が見えます。

参詣客と歩幅を合わせて進んで行くと、白無垢姿が。白無垢に綿帽子、そんな麗(うるわ)しい姿で長い時間、距離を歩かされるなんて。それこそ短距離でも八幡宮の許しをもらって人力車をチャーターしたらとアドバイスしたいところです。いずれにしろ白無垢姿にピントを合わせてはブログアップできないので遠く上の方の拝殿にピント合わせしてからパチリ。

7年半前に老化で倒れた千年の大銀杏はどのくらい成長したか観に来ました。


拝殿への急階段の大石段前には舞殿がありますが、御神酒の瓶子(へいし=御神酒入れ=徳利)があり神前結婚式の余韻が残っているようです。

61段の大石段を上る勇気が出ず階段下で拝礼して、右手の柳原池へ向かいます。

紅葉と着物美人を撮ろうとシャッターを切りました。

池に架かる小橋の上から見る池畔の紅葉です。

境内にある 鎌倉国宝館 前のまだ十分に色付いていない方の紅葉ですが、この淡い色合いも素敵です。

ズームイン。

国宝館出入り口を過ぎて南端の方へ来ると色付きも良くなってきています。
この後流鏑馬の行われる道を通って脇鳥居を抜け、東方向約500mにある源 頼朝の墓へ向かいます。

何回かのクランクを曲がり、鎌倉市西御門2丁目の 源 頼朝 墓所に通じる辻に来ました。
12世紀末、ここを中心にして約200m四方に鎌倉幕府いわゆる 大蔵幕府 と言われた 侍所 や 公文所(後に政所)(この今の政務事務所にあたる初代の長官に当たる別当が後から出てくる大江 広元です。)など(今でいう首相官邸)の役所が建ち並び、頼朝も毎日通勤していました。といっても頼朝の館もすぐ近くにあったようです。(実は暗殺を恐れ転々と居場所を変えていたという説もあり、源氏山の麓、今の 寿福寺 近くにも館があったという説もあります。)
当時全国が平定され世の中が落ち着いてくるにつれて地方からも紛争の陳情や訴え(訴状)が相次ぐようになり、裁定など司法の役割も持っていたが、あまりの多さに頼朝もだんだん嫌気が差し 問注所(今の裁判所)を現在の鎌倉市役所近くの 市立御成小学校 敷地へ移したという逸話があります。
さらに余談ですが、御成小学校敷地は明治時代には 鎌倉御用邸 があり、幼少期に体の弱かった明治天皇の第8・第9皇女である富美宮・泰宮が住んでいました。

階段下近くまで来ると法華堂跡という大正末期に建てられた石板の史蹟案内板が立っている横にこのような説明板もあります。
この近所には 横浜国立大学教育学部付属鎌倉小学校 や 私立清泉小学校 または鎌倉市立第2小学校などがありますが、どちらかの生徒が作ったものでしょうか。

その隣にはこのような説明板というか案内板があります。ここは源 頼朝の墓の真ん前ですが、右約150m先にある法華堂跡の説明板を置き、できれば観光客を誘導しようとしています。
この頼朝の家来だった大江 広元の墓、その子孫で長州 毛利家と薩摩 島津家の初代の墓があると誘導しています。

前画の絵地図部分を拡大します。左上の頼朝墓を基準にして何処にあるかを示しています。

頼朝墓へも急階段、何回か行ったしギャラリーも訪れたことがないという人はいないと思いますので、きょうはパスします。勿論53段の階段を上り切った正面すぐに五輪塔のような墓碑が建っています。
今は1.2m程の石柵に囲われ門扉まで付いて整備されていますが、うろ覚えですが、50年ほど前の学生時代に観た時は左右後ろ三方を跨げるほど低い石柵で囲われただけの説明板もない荒れた墓でした。だから当時本当に偉人頼朝の墓とは思えませんでした。参考に グーグルの写真集 を貼りますが、残念ながら当時の古い画は見つかりません。
なお、頼朝の武者姿座像が鎌倉駅を挟んだ西側の 源氏山公園 にあります。

右へ僅か数十m行くと夫々(それぞれ)の墓のある法華堂跡だという案内プレートが立っています。
きょうは階段は苦手ですが、僕は初訪問なのでこれは意を決して行かなければなりません。

頼朝の正室 北条 政子 の弟で鎌倉幕府創立を助けた第2代執権 北条 義時 の墓及び供養堂となる法華堂がここにあったという説明です。
どうも紛らわしいのですが、法華堂跡とは頼朝の法華堂跡と義時の法華堂跡の2つ(2か所)あるようです。

住宅街の平地から50段ほどの階段を上がると一旦数十m四方くらいの平坦な広場に出ますが、そこが義時の法華堂跡です。そこから住宅街の甍や遠く東の方の山々を望みます。あの山の向こうは逗子市です。

その平場の一角の崖下に掘られた やぐら は三浦一族の者との卒塔婆が立っています。あれ、北条 義時の墓ではなかったのですが、彼はどこにと見回しますがそれらしきものが見つかりません。
どうやら北条 義時の墓である法華堂跡の平地に面した崖に、時代が下って、第5代執権 北条 時頼 に滅ぼされた地元豪族の 三浦 泰村 一族のやぐらが造られたようです。三浦氏も元は北条氏に仕える重臣だったのですが、いつかどこかでボタンの掛け違いが起こり戦うことになったのです。

さらに三浦一族のやぐらの脇の50数段の2本平行してある急階段の左側のを上がると正面に”大江 広元”(おおえのひろもと)のやぐらがあります。

中を覗きます。

脇には大江 広元のものだと証明するような銘版石柱が立っています。

やぐらの前は狭く後ろへ下がれないので、広角側にしてもうまく全体を入れることができません。
右端が大江 広元のやぐらの門柱の一部、その左の 亀趺 の上には大江 広元の顕彰碑だろうか。そして左のやぐらが四男の毛利 季光(すえみつ)です。

毛利 季光 の正面観です。

毛利 季光のやぐらを覗きます。
彼は北条氏が三浦氏を滅ぼした三浦氏の乱(宝治合戦)の時、三浦氏側に付き、やはり一族郎党は階段下の義時法華堂跡で約500名が集団自刃しました。よって彼の一族の小さな宝塔が周りに数多くあるのが特徴です。

大江を真ん中にして左に毛利 季光、右に島津 忠久が並んでいます。つまりこちらは 島津 忠久 です。
大江・毛利親子のやぐらは隣り同士で並んでいますが、島津との間には石製のフェンス(柵)があって簡単には行き来できないようになっています。だから先ほど2本の階段の左側を上がったと書いた通り、島津側に行くには一旦階段を下り上りしなければなりません。しかしそれも大変ですから実際には崖の足元に十分気を付けて階段途中を横に渡ってしまいます。

この石碑には安永8年、1779年に江戸時代後期で10代将軍徳川 家治の時代に、玉垣、石燈籠2基、石盃盤1個を 島津 重豪 が奉納したと書かれています。

島津 忠久のやぐらの中を覗いています。
さてこれでこのやぐらから退出しますが、ギャラリーは何かに気付きましたか?
ここが鎌倉時代の大江 広元の関係者の墓だと思いますか? 鎌倉時代に建てられた墓だと思いますか?
そうなんです、ここは案内板などでは墓だと紹介されていますが、実は遺体や骨が埋まっている墓ではなく供養塔や顕彰碑なのです。
例えば大江 広元は邸宅が鎌倉市十二所付近にあり、この近くの大蔵幕府まで通勤していたのであり、広元の墓とされるものは十二所の 明王院 の裏山にあるとされています。ここのは1823年(文政6年)、長州藩によって建てられたものです。
毛利 季光は、まさにこの下で北条氏との 宝治合戦 に敗れた三浦氏(自分の父は北条氏に貢献していたが、三浦 泰村の妹を妻にしたため、実は板挟みにあっていた。)に味方したために、三浦一族とともに約500名が下の法華堂跡で自刃したのが鎌倉時代の1247年で、その当時下にあった三浦氏一族のやぐらを造るだけで50数段も上がったここは鬱蒼とした山の斜面でありやぐらなどありませんでした。これを建立したのは子孫の長州藩毛利氏なのです。
なお、一族全滅したなら子孫は居ないのではないかとなりますが、僅かに生き延びる者がいてその子孫が戦国時代に活躍した 毛利 元就 であり、長州藩毛利家へと繋がっていくのです。蛇足ですが、映画俳優だった 高倉 健 も1333年に全滅した北条氏一族(北条 高時)の末裔で、やはり微かに落ち延びた者が代々九州福岡県で子孫を作っていったのです。鎌倉市小町3丁目にある東勝寺跡にある腹切りやぐらに生前毎年必ず何本もの卒塔婆を献納していました。
島津も然り、島津 忠久と重豪とは25代も離れています。
毛利氏と島津氏は、頼朝に仕えた大江 広元やその子で長州毛利氏祖となった毛利 季光や頼朝の子とされ薩摩島津氏祖の島津 忠久という祖先を顕彰するため、江戸時代後期に源 頼朝墓の近くに墓とはしたが、正確には供養塔や顕彰碑として設けたものと考えられます。
どうですか、面白い事実認識を新たにしていただけたでしょうか。国が立てたか鎌倉市が立てたか、案内板の正確性というか詳説性というものを再考した方がいいですね。

前画から約300m歩いて徒歩6分後、午後4時も回りましたが、鎌倉市二階堂の 荏柄天神社 前に来ました。

右前方の黄葉の大銀杏がこの神社のシンボルである御神木です。鎌倉で鶴岡八幡宮の大銀杏に次ぐ2番目の大きさで樹齢約900年ですが、鶴岡のは7年前に倒木したのですから、科学的にはこちらが1番になったはずですが、伝統の重さゆえに座を譲らないようです。

ここぞ日本三大学問の天神様のようですが、東京の 湯島天神、亀戸天神 はどういう位置付けになるのでしょうか。
参考 ”荏柄天神社 HP” ←Click!

境内をゆっくり撮りたいと思っていたら後から若者集団がやってきてしまいました。もう日没まで時間がないので彼らが立ち去るのを待ってはいられず画に入らざるを得ません。
左端にはこの神社で有名な、古今東西の漫画家たちが合同して建立した絵筆塚です。芸術で上達したい人の祈願社でもあります。

御神体は簾(すだれ)の向こうのようです。

退出にあたって大銀杏全体を撮ろうと近付いたら大き過ぎて再び本殿前に戻って撮ります。
ここも高台で風の吹き上がりの厳しい所ですから、鶴岡八幡宮のようなことがないように、あと100年は立っていてほしいと祈るところです。

さらに約250m歩いて同じく鎌倉市二階堂の 鎌倉宮 大鳥居前に来ました。

ここは 後醍醐天皇 の第3皇子で 建武の中興 以前に鎌倉幕府打倒に天皇を補佐して尽力しましたが、足利尊氏 との確執で捕えられここに幽閉され殺害された 護良親王(もりなが)という偉人を祭神にした 単立 神社です。例えば似たようなのは 松陰神社 ですね。

さすが内陸部なので境内の紅葉も今が盛りです。右端は無料休憩所なのでちょっと休憩します。

この境内には大きな公衆トイレと無料休憩所があり、観光客には優しいスポットです。その休憩所には大小の獅子頭が展示されています。

参拝します。

拝殿右側には護良親王の身代わりとなった村上彦四郎義光の武者姿像があり、体に具合の悪い部分のある人は像のその部分を撫でると身代わりになってくれて癒されるという言い伝えです。

Wikipediaより ”村上 義光” ←Click!

日没になったので退出します。参拝で正面から眺めたら薄暗かったせいかそんなに奥深く見えなかったのですが、脇へ回ったら意外と奥深いので撮ってみました。御神体たる護良親王のお姿はどんなもんなんでしょうか、気になるところですが誰も観ることはできないでしょう。
この本殿奥ノ院の裏には、護良親王が幽閉されていたとされる二階堂ケ谷にあった東光寺(かつて鎌倉市二階堂にあった処刑場に隣接していた寺院。護良親王の幽閉・処刑が行われた。廃寺となり現在は鎌倉宮となっている。)にあった土牢を再現した土牢(有料拝観)がありますが、残念ながら時間切れで見ることができません。
大鳥居脇には短い距離ですがここと鎌倉駅を結ぶ京急バスがあるので、それで帰途に就きます。駅へ着くとかなり夕闇が迫ってきて、そのまま横須賀線、東海道線で帰京し下車した駅前で夕食を摂り帰宅です。慣れた道ばかりだったので疲労感はさほど感じませんでした。きれいな秋景色に目の保養ができ明日の英気を養えたようです。
稲村ケ崎でたっぷりと潮風を浴びて再び江ノ電で鎌倉駅まで戻ります。まだ午後1時を過ぎたばかりなのでもう少し慣れた道を散歩してみます。

JR鎌倉駅そばの踏切を渡ると両側の留置線にはまずあの651系K105編成 急行 ぶらり横浜・鎌倉号が日立への帰り便のために待機しています。いつも見たことがないのですが、この位置からどうやって左の上り線へ入線させるのでしょうか。いったん逗子側へバックしてからでしょうか、それとも北鎌倉側へこの踏切を越えてからバックでホームへ入るのでしょうか、常識的には逗子側へでしょうが、一度観てみたいと思っています。ああ、手っ取り早いのは駅員に聞くことでした。


下り線側には185系B3編成ですが、これはあのホリデー快速鎌倉号ではないと思うのですが、朝は確かB6編成だったのです。

パンタグラフも下ろして電源を切っているので、ライトも点かずお昼寝中です。おそらく団臨でしょう。
両車とも違う車両センター所属ですが、とてもよく手入れされていて車体のピカピカが光ります。

今、鎌倉市では近々封切りのこの映画の話題でいっぱいのようです。
おととし夏は ”海街Diary” でした。

去年3月にリニューアルした 段葛 を行きます。ニの鳥居を潜ります。

ちょっと遅れたお宮参りかな。

鶴岡八幡宮 の玄関にあたる大鳥居まで来ましたが、駅から程良く便が良く鎌倉一の人気スポットですから相変わらずの人波です。源平池の平家側の橋が工事で閉鎖されているので右側の橋の上は大混雑です。

人波に揉まれながら橋を渡り、鎌倉市雪ノ下2丁目の鶴岡八幡宮参道へ入ります。
右手の源氏池の池畔には僅かばかりの紅葉が見えます。

参詣客と歩幅を合わせて進んで行くと、白無垢姿が。白無垢に綿帽子、そんな麗(うるわ)しい姿で長い時間、距離を歩かされるなんて。それこそ短距離でも八幡宮の許しをもらって人力車をチャーターしたらとアドバイスしたいところです。いずれにしろ白無垢姿にピントを合わせてはブログアップできないので遠く上の方の拝殿にピント合わせしてからパチリ。

7年半前に老化で倒れた千年の大銀杏はどのくらい成長したか観に来ました。


拝殿への急階段の大石段前には舞殿がありますが、御神酒の瓶子(へいし=御神酒入れ=徳利)があり神前結婚式の余韻が残っているようです。

61段の大石段を上る勇気が出ず階段下で拝礼して、右手の柳原池へ向かいます。

紅葉と着物美人を撮ろうとシャッターを切りました。

池に架かる小橋の上から見る池畔の紅葉です。

境内にある 鎌倉国宝館 前のまだ十分に色付いていない方の紅葉ですが、この淡い色合いも素敵です。

ズームイン。

国宝館出入り口を過ぎて南端の方へ来ると色付きも良くなってきています。
この後流鏑馬の行われる道を通って脇鳥居を抜け、東方向約500mにある源 頼朝の墓へ向かいます。

何回かのクランクを曲がり、鎌倉市西御門2丁目の 源 頼朝 墓所に通じる辻に来ました。
12世紀末、ここを中心にして約200m四方に鎌倉幕府いわゆる 大蔵幕府 と言われた 侍所 や 公文所(後に政所)(この今の政務事務所にあたる初代の長官に当たる別当が後から出てくる大江 広元です。)など(今でいう首相官邸)の役所が建ち並び、頼朝も毎日通勤していました。といっても頼朝の館もすぐ近くにあったようです。(実は暗殺を恐れ転々と居場所を変えていたという説もあり、源氏山の麓、今の 寿福寺 近くにも館があったという説もあります。)
当時全国が平定され世の中が落ち着いてくるにつれて地方からも紛争の陳情や訴え(訴状)が相次ぐようになり、裁定など司法の役割も持っていたが、あまりの多さに頼朝もだんだん嫌気が差し 問注所(今の裁判所)を現在の鎌倉市役所近くの 市立御成小学校 敷地へ移したという逸話があります。
さらに余談ですが、御成小学校敷地は明治時代には 鎌倉御用邸 があり、幼少期に体の弱かった明治天皇の第8・第9皇女である富美宮・泰宮が住んでいました。

階段下近くまで来ると法華堂跡という大正末期に建てられた石板の史蹟案内板が立っている横にこのような説明板もあります。
この近所には 横浜国立大学教育学部付属鎌倉小学校 や 私立清泉小学校 または鎌倉市立第2小学校などがありますが、どちらかの生徒が作ったものでしょうか。

その隣にはこのような説明板というか案内板があります。ここは源 頼朝の墓の真ん前ですが、右約150m先にある法華堂跡の説明板を置き、できれば観光客を誘導しようとしています。
この頼朝の家来だった大江 広元の墓、その子孫で長州 毛利家と薩摩 島津家の初代の墓があると誘導しています。

前画の絵地図部分を拡大します。左上の頼朝墓を基準にして何処にあるかを示しています。

頼朝墓へも急階段、何回か行ったしギャラリーも訪れたことがないという人はいないと思いますので、きょうはパスします。勿論53段の階段を上り切った正面すぐに五輪塔のような墓碑が建っています。
今は1.2m程の石柵に囲われ門扉まで付いて整備されていますが、うろ覚えですが、50年ほど前の学生時代に観た時は左右後ろ三方を跨げるほど低い石柵で囲われただけの説明板もない荒れた墓でした。だから当時本当に偉人頼朝の墓とは思えませんでした。参考に グーグルの写真集 を貼りますが、残念ながら当時の古い画は見つかりません。
なお、頼朝の武者姿座像が鎌倉駅を挟んだ西側の 源氏山公園 にあります。

右へ僅か数十m行くと夫々(それぞれ)の墓のある法華堂跡だという案内プレートが立っています。
きょうは階段は苦手ですが、僕は初訪問なのでこれは意を決して行かなければなりません。

頼朝の正室 北条 政子 の弟で鎌倉幕府創立を助けた第2代執権 北条 義時 の墓及び供養堂となる法華堂がここにあったという説明です。
どうも紛らわしいのですが、法華堂跡とは頼朝の法華堂跡と義時の法華堂跡の2つ(2か所)あるようです。

住宅街の平地から50段ほどの階段を上がると一旦数十m四方くらいの平坦な広場に出ますが、そこが義時の法華堂跡です。そこから住宅街の甍や遠く東の方の山々を望みます。あの山の向こうは逗子市です。

その平場の一角の崖下に掘られた やぐら は三浦一族の者との卒塔婆が立っています。あれ、北条 義時の墓ではなかったのですが、彼はどこにと見回しますがそれらしきものが見つかりません。
どうやら北条 義時の墓である法華堂跡の平地に面した崖に、時代が下って、第5代執権 北条 時頼 に滅ぼされた地元豪族の 三浦 泰村 一族のやぐらが造られたようです。三浦氏も元は北条氏に仕える重臣だったのですが、いつかどこかでボタンの掛け違いが起こり戦うことになったのです。

さらに三浦一族のやぐらの脇の50数段の2本平行してある急階段の左側のを上がると正面に”大江 広元”(おおえのひろもと)のやぐらがあります。

中を覗きます。

脇には大江 広元のものだと証明するような銘版石柱が立っています。

やぐらの前は狭く後ろへ下がれないので、広角側にしてもうまく全体を入れることができません。
右端が大江 広元のやぐらの門柱の一部、その左の 亀趺 の上には大江 広元の顕彰碑だろうか。そして左のやぐらが四男の毛利 季光(すえみつ)です。

毛利 季光 の正面観です。

毛利 季光のやぐらを覗きます。
彼は北条氏が三浦氏を滅ぼした三浦氏の乱(宝治合戦)の時、三浦氏側に付き、やはり一族郎党は階段下の義時法華堂跡で約500名が集団自刃しました。よって彼の一族の小さな宝塔が周りに数多くあるのが特徴です。

大江を真ん中にして左に毛利 季光、右に島津 忠久が並んでいます。つまりこちらは 島津 忠久 です。
大江・毛利親子のやぐらは隣り同士で並んでいますが、島津との間には石製のフェンス(柵)があって簡単には行き来できないようになっています。だから先ほど2本の階段の左側を上がったと書いた通り、島津側に行くには一旦階段を下り上りしなければなりません。しかしそれも大変ですから実際には崖の足元に十分気を付けて階段途中を横に渡ってしまいます。

この石碑には安永8年、1779年に江戸時代後期で10代将軍徳川 家治の時代に、玉垣、石燈籠2基、石盃盤1個を 島津 重豪 が奉納したと書かれています。

島津 忠久のやぐらの中を覗いています。
さてこれでこのやぐらから退出しますが、ギャラリーは何かに気付きましたか?
ここが鎌倉時代の大江 広元の関係者の墓だと思いますか? 鎌倉時代に建てられた墓だと思いますか?
そうなんです、ここは案内板などでは墓だと紹介されていますが、実は遺体や骨が埋まっている墓ではなく供養塔や顕彰碑なのです。
例えば大江 広元は邸宅が鎌倉市十二所付近にあり、この近くの大蔵幕府まで通勤していたのであり、広元の墓とされるものは十二所の 明王院 の裏山にあるとされています。ここのは1823年(文政6年)、長州藩によって建てられたものです。
毛利 季光は、まさにこの下で北条氏との 宝治合戦 に敗れた三浦氏(自分の父は北条氏に貢献していたが、三浦 泰村の妹を妻にしたため、実は板挟みにあっていた。)に味方したために、三浦一族とともに約500名が下の法華堂跡で自刃したのが鎌倉時代の1247年で、その当時下にあった三浦氏一族のやぐらを造るだけで50数段も上がったここは鬱蒼とした山の斜面でありやぐらなどありませんでした。これを建立したのは子孫の長州藩毛利氏なのです。
なお、一族全滅したなら子孫は居ないのではないかとなりますが、僅かに生き延びる者がいてその子孫が戦国時代に活躍した 毛利 元就 であり、長州藩毛利家へと繋がっていくのです。蛇足ですが、映画俳優だった 高倉 健 も1333年に全滅した北条氏一族(北条 高時)の末裔で、やはり微かに落ち延びた者が代々九州福岡県で子孫を作っていったのです。鎌倉市小町3丁目にある東勝寺跡にある腹切りやぐらに生前毎年必ず何本もの卒塔婆を献納していました。
島津も然り、島津 忠久と重豪とは25代も離れています。
毛利氏と島津氏は、頼朝に仕えた大江 広元やその子で長州毛利氏祖となった毛利 季光や頼朝の子とされ薩摩島津氏祖の島津 忠久という祖先を顕彰するため、江戸時代後期に源 頼朝墓の近くに墓とはしたが、正確には供養塔や顕彰碑として設けたものと考えられます。
どうですか、面白い事実認識を新たにしていただけたでしょうか。国が立てたか鎌倉市が立てたか、案内板の正確性というか詳説性というものを再考した方がいいですね。

前画から約300m歩いて徒歩6分後、午後4時も回りましたが、鎌倉市二階堂の 荏柄天神社 前に来ました。

右前方の黄葉の大銀杏がこの神社のシンボルである御神木です。鎌倉で鶴岡八幡宮の大銀杏に次ぐ2番目の大きさで樹齢約900年ですが、鶴岡のは7年前に倒木したのですから、科学的にはこちらが1番になったはずですが、伝統の重さゆえに座を譲らないようです。

ここぞ日本三大学問の天神様のようですが、東京の 湯島天神、亀戸天神 はどういう位置付けになるのでしょうか。
参考 ”荏柄天神社 HP” ←Click!

境内をゆっくり撮りたいと思っていたら後から若者集団がやってきてしまいました。もう日没まで時間がないので彼らが立ち去るのを待ってはいられず画に入らざるを得ません。
左端にはこの神社で有名な、古今東西の漫画家たちが合同して建立した絵筆塚です。芸術で上達したい人の祈願社でもあります。

御神体は簾(すだれ)の向こうのようです。

退出にあたって大銀杏全体を撮ろうと近付いたら大き過ぎて再び本殿前に戻って撮ります。
ここも高台で風の吹き上がりの厳しい所ですから、鶴岡八幡宮のようなことがないように、あと100年は立っていてほしいと祈るところです。

さらに約250m歩いて同じく鎌倉市二階堂の 鎌倉宮 大鳥居前に来ました。

ここは 後醍醐天皇 の第3皇子で 建武の中興 以前に鎌倉幕府打倒に天皇を補佐して尽力しましたが、足利尊氏 との確執で捕えられここに幽閉され殺害された 護良親王(もりなが)という偉人を祭神にした 単立 神社です。例えば似たようなのは 松陰神社 ですね。

さすが内陸部なので境内の紅葉も今が盛りです。右端は無料休憩所なのでちょっと休憩します。

この境内には大きな公衆トイレと無料休憩所があり、観光客には優しいスポットです。その休憩所には大小の獅子頭が展示されています。

参拝します。

拝殿右側には護良親王の身代わりとなった村上彦四郎義光の武者姿像があり、体に具合の悪い部分のある人は像のその部分を撫でると身代わりになってくれて癒されるという言い伝えです。

Wikipediaより ”村上 義光” ←Click!

日没になったので退出します。参拝で正面から眺めたら薄暗かったせいかそんなに奥深く見えなかったのですが、脇へ回ったら意外と奥深いので撮ってみました。御神体たる護良親王のお姿はどんなもんなんでしょうか、気になるところですが誰も観ることはできないでしょう。
この本殿奥ノ院の裏には、護良親王が幽閉されていたとされる二階堂ケ谷にあった東光寺(かつて鎌倉市二階堂にあった処刑場に隣接していた寺院。護良親王の幽閉・処刑が行われた。廃寺となり現在は鎌倉宮となっている。)にあった土牢を再現した土牢(有料拝観)がありますが、残念ながら時間切れで見ることができません。
大鳥居脇には短い距離ですがここと鎌倉駅を結ぶ京急バスがあるので、それで帰途に就きます。駅へ着くとかなり夕闇が迫ってきて、そのまま横須賀線、東海道線で帰京し下車した駅前で夕食を摂り帰宅です。慣れた道ばかりだったので疲労感はさほど感じませんでした。きれいな秋景色に目の保養ができ明日の英気を養えたようです。
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